2008年4月13日日曜日

個としての限界

週末になると、来週から仕事だとか思って、

上司にきれられたら嫌だなぁとか思って、


具合が悪くなる







セフレが欲しい

が、全く出会いがない。
街を歩けば、イヤでも強制的にカップルを見ることになるんだけれど、



彼らに比べて僕は不幸だろうか?

と考えてしまう

いや、そもそも幸せの価値観は一つではないはずだし、今欲しいと思うものが手に入ったら、それは一瞬にして何の価値もなくなるはずだと自己肯定してこの議題から逃げる

ただし、僕が日頃から渇望している、性欲を彼らは満たしているはずだ。
もしくは満たしていなかったとしても、満たすだけの権利を持っている

それをもっていない僕にとっては、
風俗くらいしか方法論がない

なんて情けないんだ。
そして何て無駄なお金の使い方だろう


僕が高い金を払って結局はBで終わっている際に、彼らは0円でCまでいっているわけだ
その1点から考えてみると、明らかに僕は不幸だという結論に達するだろう


ただ、なんらかのチャンスがあったとして、僕にセフレができたとしても、手に入れた瞬間にその僕の渇望した価値は消えることは確かだ


あれだけ受かっていればいいなあとか思った、会社の資格が見事受かっていたのに、
今になっては感動はほとんどない。

じゃぁ今自分が渇望している、性の対象としての異性は結局何の正体もない、
ただの透明人間だといってもいいだろう


愛のない人生は無価値だとか言うことわざがあるわけだけど、

愛というのは、漠然しすぎていて、これでは大衆化というかインパクトが足りないと思ってしまう


だから言い換えよう


セックスのない人生は無価値だと



そう考えれば簡単じゃないか、


どんなに工夫したところで、努力したところで一人ではセックスすることができない
セックスは二人でないと成り立たない


どんなに学歴が高くても、どんなに給料が高くても
どんなにハンサムでも、どんなに地位が高くても

僕にとっては、セックスできない人生には何の価値も感じない

よって、このような個としての限界を感じている僕にとっては、


会社などで言われる

「彼女できた?」とかいう質問が非常に疎ましく感じるし
週末デートしているカップルを見ると、羨ましく感じ


死にたくなるんだ

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